今日8月17日は高見順が死ん だ日です(1965.8.17)。高見順は『如何なる星の下に』『いやな感じ』などで知られるエライ小説家ですが、永井荷風の従兄弟でもありました。なの に二人はまともに口も聞かなかったし、日記でお互いの悪口を散々書きあっています。どういう経緯なのか。とかく人のケンカは面白いので、野次馬根性を出し てみましょう。
まず高見順のご紹介をします。 『ニッポニカ』から抜粋すると次の様な人物。
「福井県の生まれ。明治40年当時の福井県知事阪本釤 之介(しんのすけ)の庶子として生まれる。母とともに上京し、府立一中、旧制一高を経て、東京帝国大学英文科に進む。東大では左翼芸術同盟を結成し、プロ レタリア文学。その後検挙され転向するが、妻に裏切られ精神的苦悩が重なる。戦争が長期化する中で逃れるように浅草生活に入り、浅草情緒を伝える作品を書 く。昭和40年8月17日癌で倒れる。日本ペンクラブや日本近代文学館の創設に尽力した」 この福井県知事の阪本釤之介は荷風のお父さん久一郎の 実弟です。荷風にとっては叔父に当たる。荷風が小さい時に小石川金富町の屋敷に同居していたこともある。もっとも高見順と荷風は30歳近く年齢が離れてい て、荷風はその存在すら知らなかったようです。ケンカになるような状況じゃないのですが、いったいどうしたのでしょうか。 荷風が最初に高見順を知るのは昭和11年8月27日の こと。『日乗』によるとこうなってます。 「東京茶房に小憩す。偶然この喫茶店の女給石田某とよ べる女の旧情人高見沢某なる人は余が叔父阪本三頻翁が庶子なる由を知りぬ。・・・文学者なりと云ふ。余は大正三年以後親類と交わらずを以て今日この時まで 何事をも知らざりしなり。」(註、名前を間違って書いてます) 続いて9月5日には次のような記述が: 「八月末の日記にしるせし高見氏のことにつき、その後 また聞くところあり。氏は近年執筆せし短編小説を集め起承転々と題し、今年7月改造社より単行本としを公にしたり。書中私生児と題する一小編は氏の出生実 歴を述べたるものにて、実父阪本翁一家の秘密はこれが為悉く余に暴露せられたりと云ふ。気の毒のことなり。阪本翁は余が父の実弟にて・・・儒教を奉じて好 んで国家教育のことを説く。されど閨門治まらず遂に私生児を挙ぐるにいたりしも恬として恥じるところなく、貴族院の議場にて常に仁義道徳を説く。余は生来 潔癖ありて、斯くの如き表裏ある生活を好まざるを以て三四十年来叔姪の礼をなさず、・・・・偶然高見氏のことを聞き、叔父の迷惑を思ひ、痛快の念禁ずべか らずなり。」 この叔父の阪本氏を題材にして荷風は「新任知事」とい う風刺小説を書き、以来荷風と阪本家は絶交となっていました。自分のお父さんに較べて、妙に要領がよく立身出世主義の叔父が気にくわなかったのでしょう が、「新任知事」は誰が読んでも阪本氏のことだと分かる。阪本氏も、最初は甥から筆誅され、次に自分の子供から悪く描かれては、実にお気の毒です。でも荷 風にとっては、敵の敵は味方であるはずですから、高見順は味方の筈なのですが、どうしてケンカしたのでしょう。 同じ年の10月16日、荷風は高見順より献本を受け 取っています。次の記述があります: 「高見順其著短編小説集女体を贈らる。晴れて風なけれ ば午後また落葉を焚く・・・」 一見何でもないようですが、後述する高見順の日記で分 かるように、荷風はこの献本に腹を立てています。荷風の高見順への印象は相当悪かったようで、以後日記で悪口が続きます。 「昭和15年2月16日。・・・谷中氏に逢ふ。同氏の はなしにこの日午後文士高見順踊子二三人を伴ひオペラ館客席に来れるを見たり。原稿用紙を風呂敷にも包まず手に持ち芝居を見ながらその原稿を訂正する態度 実に驚き入りたりと云ふ。・・・・(三上於と吉の愚談と)好一対の愚談なり」 「6月16日。・・・文士高見順という面識なき人、往 復葉書にてその作れる戯曲を上演すべし。会費を出して來たり見よというが如きことを申し来たれり。自家吹聴の陋実に厭うべし」 「9月13日。・・・オペラ館楽屋裏に至る。文士高見 順□楽屋に來たり余に交際を求めむとすという。迷惑甚だし。」 さんざんですが、理屈抜きに気に入らなかったのでしょ うね。でも荷風もこの日記を生前に刊行するのは、相当嫌味です。一方の当事者である高見順はどうかといえば、荷風が死んでから4年もたった時の日記でさん ざん荷風の悪口を書いて憂さを晴らしている。 『高見順日記』(昭和38年2月16日)では、 「(『断腸亭日乗』によれば)オペラ館の客席で私が原稿を書いたという。待合いで原稿を書いた三上オト吉と好一対だという。私はそんなキザな真似をした覚 えはない」 さらに続けて、 「荷風の私あての手紙を妻が押入から探し出してきて、 もってきたが、実に無礼な手紙だ。実にいやな奴だ。『女体』(昭和11年刊)を贈ったことに対する礼状だが、たとえば『御恵贈に与り御芳志難有存候』とあ る、その『御芳志』の『御』をわざわざ行の最後に書いてある。無礼極まりない」 真実はよくわかりませんが、どうも荷風の方が意地悪 だったと思います。嫌いな叔父の私生児ということに対する生理的な反発だったのでしょう。 でも手紙の「行かえ」の位置で嫌味を発信したり、また 受け取った方がそれに反応するとか、実に細かいというか、ここまで来ると嫌味も高等テクニックです。(ワープロだったらどうするのだろう?) やっぱり二人は似たもの同士なのです。血は争えないの でしょうね。 Posted: Sun - August 17, 2003 at 06:26 AM Letter from Yochomachi 永井荷風 Comments (2) |
2003年8月17日日曜日
〔再録〕荷風と高見順
2003年8月15日金曜日
お盆とお化けと「妙な予感」
今日はお盆である。年に一度ご先祖様の精霊が帰ってこられる日だ。いろいろ不思議なことも起こるらしい。個人的には今までそれほど不思議な体験をしたことはないが、ひとつだけ奇妙なことがあった。
子供の時、夏になるとお化けごっこをして遊んだ。スイカの殻に穴を開けてお面を作り、毛布を上から被せたお化け装束で人を驚かせたものだ。子供のやることだからご愛敬であり、大人は驚いたふりをするだけであったが、根が単純だからお化けを演じている自分の方が本気で怖くなってしまう。想像力を肥大させてお化けは実在すると信じて暗闇を恐れおののいた。馬鹿な子供である。
特に怖かったのは二階に上る階段であった。一番小さい子供だったから夜寝るのも一番最初であり、一人で二階に寝に行くのであるが、これが怖くて怖くてしようがなかった。階段には電灯があるのだが、スウィッチが下についている。二階では電灯を消せないので、一階で消してから階段を上ると言うなんとも非合理的な仕組みだった。途中に丸窓があって障子が入っているのだが、月明かりなどがそこから差し込んでぼうっと薄明るい。その丸窓を上に眺めながら階段を上がるのだがこれが怖かった。以来、お化けとは二階の暗いところにおって、まあるい頭をしてマントを被り、人を上から襲う、二階は怖いという確信に近い思いこみをもつようになった。中学生ぐらいになっても一人で二階に上がるのを嫌がったくらいである。要は弱虫ですね。
さすがに大人になってからはそういうことはなくなったが、40年たって、1995年1月16日の夜、久しぶりに帰った実家で寝たが、二階に上がる時、ふと小さい時のお化けを思い出した。「黒いお化けが上から被さってくる」イメージである。いやな予感がしたが、そのまま二階に上り寝てしまった。
翌朝早朝5時46分、突然大音響と共に窓からさす星明かりの中で、黒い物体が頭の上に覆う被さってきた。一瞬にしてこれがあの子供の時夢にまで見たお化けの正体だとわかった。阪神大震災で、寝ていた上にタンスが倒れ、その上に屋根が落ちてきたのである。まったく身動きとれなくなった。普通は一階が壊れるものだが、二階だけが崩壊した。子供の頃の二階にはお化けが出るとの確信と予感は、40年後にたしかに実現したのである。二階は怖いという子供の頃の直感はやはり正しかったのだ。
だから「いやな予感」とか「何か気が進まない」という直感はやはり正しいことが多いのである。あまり軽視しては駄目なのであるというお話し。
ちょっと怖かったですか? 散人は怠け者だからよくこんな話を持ち出しては、やらなければいけない仕事を「気が進まない」と言って怠けてきました。でもやはり「妙な予感」というのは当たるもんなのです。
ともあれ阪神大震災のあと実家は取り壊されてしまったので、今日はお盆ですが散人には帰るべき実家もなく余丁町で過ごしています。東京は夏だというのに朝から冷たい雨。とてもお化けの出る雰囲気ではありません。ゆっくり寝られそうです。
特に怖かったのは二階に上る階段であった。一番小さい子供だったから夜寝るのも一番最初であり、一人で二階に寝に行くのであるが、これが怖くて怖くてしようがなかった。階段には電灯があるのだが、スウィッチが下についている。二階では電灯を消せないので、一階で消してから階段を上ると言うなんとも非合理的な仕組みだった。途中に丸窓があって障子が入っているのだが、月明かりなどがそこから差し込んでぼうっと薄明るい。その丸窓を上に眺めながら階段を上がるのだがこれが怖かった。以来、お化けとは二階の暗いところにおって、まあるい頭をしてマントを被り、人を上から襲う、二階は怖いという確信に近い思いこみをもつようになった。中学生ぐらいになっても一人で二階に上がるのを嫌がったくらいである。要は弱虫ですね。
さすがに大人になってからはそういうことはなくなったが、40年たって、1995年1月16日の夜、久しぶりに帰った実家で寝たが、二階に上がる時、ふと小さい時のお化けを思い出した。「黒いお化けが上から被さってくる」イメージである。いやな予感がしたが、そのまま二階に上り寝てしまった。
翌朝早朝5時46分、突然大音響と共に窓からさす星明かりの中で、黒い物体が頭の上に覆う被さってきた。一瞬にしてこれがあの子供の時夢にまで見たお化けの正体だとわかった。阪神大震災で、寝ていた上にタンスが倒れ、その上に屋根が落ちてきたのである。まったく身動きとれなくなった。普通は一階が壊れるものだが、二階だけが崩壊した。子供の頃の二階にはお化けが出るとの確信と予感は、40年後にたしかに実現したのである。二階は怖いという子供の頃の直感はやはり正しかったのだ。
だから「いやな予感」とか「何か気が進まない」という直感はやはり正しいことが多いのである。あまり軽視しては駄目なのであるというお話し。
ちょっと怖かったですか? 散人は怠け者だからよくこんな話を持ち出しては、やらなければいけない仕事を「気が進まない」と言って怠けてきました。でもやはり「妙な予感」というのは当たるもんなのです。
ともあれ阪神大震災のあと実家は取り壊されてしまったので、今日はお盆ですが散人には帰るべき実家もなく余丁町で過ごしています。東京は夏だというのに朝から冷たい雨。とてもお化けの出る雰囲気ではありません。ゆっくり寝られそうです。
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